あらまし
ヨーコの生い立ちから紐解き、前衛芸術家としての活躍、ジョンとの出会い、ジョンとの平和活動、前夫との娘キョーコとの別離・再会等のエピソードを織り交ぜながら、ジョンとヨーコの愛の結晶ともいえる「イマジン・ピース・タワー」誕生のきっかけから完成までを丁寧に追っています。
内容
- イントロ
- はじめに
- 第一章「世界の闇に光を灯すー前衛芸術家オノ・ヨーコ」
- 第二章「イマジンー想像してごらん」
- 第三章「ラブ・アンド・ピースー愛と平和を」
- 第四章「人間オノ・ヨーコー生を貫く」
- 終わりに ・点灯式の2ヵ月後、ニューヨークの録音スタジオに現れ、アーチストとして精力的に活動。
ヨーコの書
・2001年10月、日本での第一回「ドリームパワー・ジョンレノン・スーパーライブ」は欠席し、衛星生中継でニューヨークを離れられない理由と平和へのメッセージを託す。
・喜泉庵(鎌倉)の一室で書に臨み、ヨーコが大切にしてきた一字「和」と書す。調和の和、平和の和である。
・ジョンの「イマジン」が流れ、ヨーコの前衛アート「光のタワー」といえる「イマジン・ピース・タワー」が紹介され、番組のタイトルが映し出される。
イマジン・サークル
・二人が住んでいたダコタハウスは、「ジョンの思い出が詰まっているので離れられない」と言うヨーコ。
・セントラルパークの一角に「ストロベリー・フィールド」が設けられ、地面に「イマジン・サークル」が描かれている。そこに立ち、ヨーコは今もジョンの魂と向かい合っていると実感する。
ウイッシング・ウェル
・「I LOVE YOU」を光の点滅で表現するオノ・コードを使って、人と人とのコミュニケーションの大事さを訴えるパフォーマンス。
・2007年10月6日、北極圏の国アイルランドへ到着。首都レイキャビックは人口11万人の町で、レイキャビック湾に浮かぶ小島(ヴィーゼイ島)にイマジン・ピース・タワーを建設。
・イマジン・ピース・タワーの概要を紹介。直径4m・高さ2mのウィッシング・ウェル(願いの井戸)の中に大小15個の照明器具が据えられ、天に向かって光を放つ。その外壁面には24の言語でイマジン・ピースのメッセージが刻まれている。
・中国の人全員が同時にジャンプすると地球の軸がずれると言われるが、世界のみんなが一度に平和を想像すると世界の軸が変わると熱く語る。
グレープフルーツ
・1964年に日本で出版した「グレープフルーツ」が英訳される。言葉だけで綴られたコンセプト・アートで、その中にイマジンが登場。この言葉に触発されてジョンは「イマジン」を作曲。
・ロンドンで開かれる個展のために「作品カタログ」(1966年)を作成。その中のライトハウス(光の家)に興味を示し、ジョンは自分の庭に作って欲しいと要望(1967年)するが、コンセプチュアルなアイデアだからできないと断る。40年来のイマジン・ピース・タワーの発想の原点。
・アイスランドは世界で最も清い水と空気の国であり、環境にやさしい場所として建設地に決定。
・2005年10月にイマジン・ピース・タワー建設を公式発表、2006年10月に地鎮祭、2007年7月に建設工事がスタート。
・イマジン・ピース・タワーについて地元の人に街頭インタビュー。
・2007年10月7日、完成披露2日前に点灯式のリハーサル。
ベッドイン
・ベトナム戦争が激化した1960年代後半、ジョンとヨーコは新婚旅行中のアムステルダムのホテルで1週間「ベッドイン」を行い、1日8時間も記者達と平和について語り合う。カナダのモントリオールでも行い、ホテルの一室で反戦のシンボル曲となる「ギブ・ピース・ア・チャンス」をレコーディング。
・反戦デモの過激化に違和感を感じ、政治活動から距離を置く。
・1975年10月、ジョンと同じ誕生日にショーンが生まれ、ジョンは育児に専念し、ヨーコがビジネスを担当。1977年には家族そろって軽井沢で過ごし、1980年に音楽活動を再開する。「スターティング・オーバー」で再出発を誓うが、直後に銃弾に倒れる。
・死の2ヶ月前に録音されたテープ「グロー・オールド・ウィズ・ユー」を聴きながら、一本の幹に二つの枝のように今でもジョンと共に生きていると感慨に耽る。
光のタワー
・1950年代、19歳で父の赴任先のニューヨークへ移る。大学に入学するが、型にはまった教育が合わず、アバンギャルドの世界へ。前衛芸術派「フルクタス」の一員として独自に活動し、高い評価を得る。
・1962年に帰国し、前衛アートを披露するが全く評価されず、一時ノイローゼに陥る。1963年にアメリカから追っかけてきた映像作家と結婚し、キョーコを生む。
・1964年にニューヨークに戻る。1966年にロンドンへ移り、ジョンと出会う。
・ジョンと結婚し、キョーコを引き取り3人で生活。前夫との間で親権問題が発生し、裁判で判決が出る前にキョーコを連れ去る。ヨーコは「ドンウォリ・キョーコ(心配しないでキョーコちゃん)」をレコードにし、ライブでも演奏。「キョーコ宛ての手紙」を雑誌に公表(1986年)し、連絡するように呼びかける。
・1994年にキョーコから電話があり、20数年ぶりに再会。キョーコは子供を作る前に母親と和解しておきたかったと言う。初めてテレビカメラを前にして、逃避生活等の心情を吐露する。
・ヨーコ、「年を重ねていくと自分が愛しく思う」と74歳現在の心境を語る。
・2007年10月9日、ジョンの67歳の誕生日に合わせてイマジン・ピース・タワーの点灯式。キョーコも招き、ショーンと肩を並べる。ヨーコがリンゴとオリビア(ジョージの妻)を連れて会場に登場し、開会のあいさつ。「イマジン」が流れるなか点灯し、一条の光となって天に届く。ジョンとヨーコの数々の思い出シーンが映し出される。
・後50年ぐらい欲しい。やりたいことが沢山あって、これからが大事と語る。まだまだ意気軒昂である。
印象に残るシーン
- ドリームパワー・ジョンレノン・スーパーライブ
- ジョンとの出会い
- 軽井沢での休暇
- グロー・オールド・ウィズ・ユー
衛星テレビで出演者と会話
コンサート当日は衛星テレビの大画面から観客に挨拶し、全出演者と会話を交換した。観客への挨拶では感極まって言葉が詰まったのが印象に残る。来日して顔を出すより、メッセージのインパクトが強かったのではないか。
ギャラリー再現
イエスは肯定であり、ノーは否定(拒絶)である。ギャラリーのオーナーに誘われて訪れた初対面のジョンは、ヨーコに受け入れられたと感じたのであろう。ヨーコはジョンのことを全く知らなかったという。
今回の映像で詳しい紹介はないが、スターとしてではなく、家庭人として寛ぐことができたようだ。ヨーコの母国ということもあるが、ジョンも日本文化に興味を持ち、かなり精通していた。
「侘び」とか「寂び」等の日本語を連想させるイメージ・スケッチを描き、日本語を覚えていたという。特に、俳句には強い影響を受け、ジョンの作詞は簡潔で意味が深い。
ジョンのテープを聴く
ポールにテープを渡して、ビートルズの曲として完成されることを願ったが、受け入れられなかった。最終的にはジョージ・マーチンにプロデュースを依頼し、ストリングスをアレンジしたバージョンが完成している。
雑感
イマジン・ピース・タワーの発想のきっかけが、40年前にジョンがヨーコにライトハウス(光の家)を注文していたこととは知らなかった。観念的なアイデアをこのような形に具現化するには大きなパワーが必要です。しかも立派なアート作品としてレイキャビック美術館に所蔵してもらい、市や電力会社(電力の供給)の協力も得ています。
ヨーコのライトハウスのイメージにジョンのイマジンの思想を重ね合わせたのが、このタワーの原型だと思います。世界平和を祈念するモニュメントです。
ヨーコはジョンの資産を相続しているから、資金的な苦労は少ないでしょう。ジョンとヨーコの平和を希求するアーチストとしての日常的な活動には多くの賛同者がいて、このプロジェクトに協力しています。
ヨーコはプロデューサーとしても一流です。これまでも日本の「ジョンレノン・ミュージアム」や「ジョンレノン・スーパーライブ」の創設に関わっています。ジョンの遺志を引き継ぐだけでなく、発展させているところがヨーコのアーチスト・ヨーコたる所以です。ジョージの妻オリビアもジョージ亡き後、ジョージの遺志を守っていますが、発展させるところまではいきません。
ポールの妻リンダは亡くなっていますが、生前はポールと一心同体で活躍していました。決して出しゃばることなく、ポールを支えていました。リンゴの妻バーバラは元女優で、時々夫婦同伴の姿をマスコミに登場させています。ビートルズの妻達も4者4様ですが、知名度といい行動力といいヨーコが飛び抜けています。76歳のヨーコがこれからどんなパフォーマンスを見せてくれるか、まだまだ目が離せません。
ジョンにとってヨーコは姉さん女房です。子供時代は母親欠乏症だったから、ヨーコに母性を求めたのもよく理解できます。ヨーコは前衛芸術家として自立した女性です。その二人が結ばれ、同志として活動を共にし、ジョンの急逝により二人の生活は10年余でピリオドが打たれます。その後39年の間、ヨーコはジョンの魂を心に抱いて、「グロー・オールド・ウィズ・ユー」を地で行きます。ジョンが生きていたなら、個性の強いもの同士、いつか破局を迎えていたかもしれません。
生存中はジョンあってのヨーコでしたが、死後はヨーコあってのジョンと言えます。ジョンの存在が今なお大きいのはヨーコのお陰です。ジョンのファンはヨーコに感謝しなければなりません。
(2009.11.15 記載)