あらすじ
ジョンの生い立ちから権力への反抗心が芽生え、ビートルズ時代の「キリスト発言」に対するアメリカ南部の人達の反発にも屈しません。アメリカのベトナム戦争が泥沼化し、アメリカの若者の間に起こった反戦平和運動が世界各地で繰り広げられるようになります。ビートルズも「愛こそはすべて」や「レボリューション」を発表し、時代の流れに呼応します。特にジョンはヨーコと結婚してから、「ベッド・イン」等の平和活動を推し進めます。世間からは白い眼で見られますが、へこたれません。
1971年にニューヨークに移り住み、新左翼の活動家達と親交を結ぶようになって、政府当局から危険人物として睨まれることになります。FBIの監視・盗聴等の圧力が厳しくなり、身の危険さえ感じます。若者に大きな影響を与えるジョンの存在を排除したいがために、政府は国外退去命令を発します。不当な権力の行使に毅然として立ち向かい、最後は永住許可証(グリーンカード)を取得します。
ベトナム戦争にのめり込むニクソン政権が反対勢力を恐れ、陰湿な手段をとりました。その標的とされたジョンがいかに闘い、正義を勝ち取っていくかを描いたドキュメンタリー作品となっています。
登場人物(主な証言者)
・オノ・ヨーコ・・・ジョンの妻で、共に平和活動を行う。もともとアバンギャルド・アーチスト。・友人等・・・友人や専属カメラマン・ジャーナリスト等、ジョンの身近にいた人。
・大学教授・弁護士等・・・ジョンの弁護士やジョンのFBIファイル公開を求めて裁判で闘った人。
・平和活動家等・・・穏健な知識人や反戦活動家。
・新左翼の活動家等・・・アメリカ政府の転覆を図ろうとする過激な活動家。
・当局側・・・ニクソン大統領の側近・法律顧問や当時のFBI捜査官。
・その他・・・ジョンが歌にした「ジョン・シンクレア」本人や当時の民主党マクガバン大統領候補。
内容
- イントロ
- 生い立ち
- キリスト発言
- ベトナム戦争
- ヨーコとの平和活動 ・「オー・ヨーコ」が流れるなか、ヨーコを紹介。
- ベトナム戦争泥沼化
- ニューヨーク移住
- ジョン・シンクレア支援コンサート
- 国外退去命令 ・選挙権の資格が21歳から18歳に引き下げられ、ジョンのファン層の有権者が増える。ジョンは若い人に選挙の投票を呼びかける。
- 主夫時代
- 暗殺
・全米のテレビで放映され、3日後にシンクレアは解放される。ジョンの影響力の大きさにニクソン政権は脅威を感じ、ジョンへの警戒を強める契機となる。
・バックにアルバム「WALLS AND BRIDGES(心の壁、愛の橋)」の「SCARED(心のしとねは何処)」が流れる。SCAREDとは、「心の傷を負ってしまった」。
・この後にタイトルバックが流れる。
・両親に見捨てられ、伯母に厳格に育てられる。世間からは手に負えないワルと見られ、社会に対する、特に権力に対する反抗心を抱く。
・一方、感受性が豊かで、似顔絵を描いたり、文章を書いたり頭の切れる子供であった。次第にロックンロールに魅せられ、バンドリーダーとしての頭角を現していく。
ボイコット運動
・イギリスではなんでもなかった記事の一部を取り出して過激に報道したため、保守層の多いアメリカ南部で反発が起き、ボイコット運動にまで発展した。
・記者会見で誤解を与えたことは素直に謝罪するが、バッシングする者に対しては「皆さんにも私を無視する権利があると同様に、私にもその権利がある」と強気な発言。
・このトラブルも今回のテーマ「権力との闘い」の伏線となっている。
・「ワーキング・クラス・ヒーロー」が背景に流れる。ベトナム戦争で負傷した復員兵が平和活動家として活躍する。「目的のない戦争だった」という証言が印象的。
・1967年12月にワシントンで10万人を超える反戦デモ隊が行進する。若手の反戦活動家による政治団体等が結成される。
・ジョンとヨーコが袋に入って記者会見。人種・性別といった偏見のないトータルコミュニケーションをバギズムと呼ぶ。キング牧師の演説等、黒人の活躍を紹介。(曲「ウェル・ウェル・ウェル」挿入)
・「パワー・トゥ・ザ・ピープル」、「アイ・ファウンド・アウト(悟り)」が流れる。1968年8月に反戦デモと警察が衝突する。
・「レボリューション」のスタジオ演奏のシーン。ビートルズの変化を読み取る。
・ヨーコが「あの頃はつらかった」と吐露する。マスコミやビートルズのファン等、みんなから叩かれた時期であった。私もヨーコが割り込んできたから、ビートルズが壊れていったと当時はヨーコを悪者にしていた。
・「レボリューション」では、平和的な革命を歌っている。アーチストだから非暴力のガンジー精神を尊ぶ。
ベッドイン
・新婚旅行中にアムステルダムのヒルトンホテルで「ベッドイン」を行う。
・平和になるまで「ベッド・ピース」、「ヘア・ピース」と呼びかけ、暴力よりも「ベッドで愛し合おう」、「髪を長くしよう」と訴える。
・「人気を利用して発言する始めてのスター」という評価がある一方、一般の大人からは顰蹙を買う。
・全米に放映されることを目的に、モントリオールのホテルで2回目の「ベッドイン」を行う。「石鹸のようにピースを売りまくる」というコンセプト。
・ホテルの一室で、参加者と一緒に「ギブ・ピース・ア・チャンス(平和を我等に)」を収録しているシーンが通しで流れる。ベッドの上でギターを抱えて歌うジョンの姿はキリスト降臨のようだ。
・(曲「ラブ」挿入)ホテルからみんなが帰った後、美しい満月を見ながら、二人の心が満たされていたヨーコの思い出を披露。
平和キャンペーン広告
・ベトナムの戦闘シーンが流れ、「存在しない民主主義を守ろうとしたのは大きな誤りだった」という証言。
・1969年11月、25万人のベトナム戦争反対デモがホワイトハウスに押しかけ、「ギブ・ピース・ア・チャンス」を合唱する。
・平和のキャンペーンのために「WAR IS OVER!(もし君が望むなら、戦争は終わる)」の看板を世界12都市に掲げる。
・1970年4月にカンボジアに侵攻。同年5月にはカンボジア進攻に抗議する学生4人が州兵により大学構内で射殺される。(曲「兵隊にはなりたくない」挿入)
・「イマジン」をバックに、ベトナムの戦闘シーンが流れる。FBIのフーバー長官の演説を流し、ニクソン側近は「政府の方針に従わない者を崩壊させるのもFBIの使命としていた」と証言。
・(曲「ニューヨーク・シティ」挿入)ニューヨークはヨーコのホームグラウンドであり、ジョンも家に帰ってきた感じという。クリエーティブな世界の中心に住めることに感激している。
・新左翼の急進的な活動家との交際が始まる。政府から危険視されている人物にも財政的支援を行い、警察を敵に回すことになる。
・第三者から見ると、スターであるジョンが活動家達の手に落ち、広告塔として利用されていた。
・1971年12月、シンクレアを救うためのコンサートが開かれ、全米で生中継される。コンサートに出演したジョンは「ジョン・シンクレア」を歌う。
・コンサートの3日後にシンクレアは釈放され、政府当局はジョンの影響力に恐れを抱く。
・1972年の共和党大会の外で反戦コンサートが企画され、ジョンにも声がかかる。3日間のロックフェスティバルが100万人の反体制集会になることを恐れ、当局はつぶしにかかる。
・1972年3月、ジョンがコンサートに参加できなくするため、ビザが失効するのを機にジョンの国外退去命令を出す。
・(曲「コールド・ターキー」挿入)公式の理由は、1968年にイギリスで大麻所持の有罪判決を受けていたことだが、本音はピースニック(平和主義者)だからである。早速、弁護士を雇い、入国不服審査会に上告する。
・(曲「ハウ」挿入)「やりたいことはロックンロールバンド。それだけはどんなことがあっても、誰にも渡さない。」とジョンが語る。行動を自粛する。
・1972年11月、ニクソン再選が決まる。ジョンが「また繰り返される、どうしてこうなった?」とつぶやくように歌う曲は初めて耳にする。以降、FBIのジョンへの関心が薄れる。
・(曲「ギブ・ミー・サム・トゥルース(真実が欲しい)」挿入)1973年10月、ジョンはFBIによる盗聴・監視等のプライバシー侵害を理由に、司法長官を相手に訴訟を起こす。ニクソン政権の隠蔽工作、政敵に対する盗聴等、いわゆるウォーターゲート事件の発覚により、1974年8月にニクソン大統領は辞任する。
・1975年4月に南ベトナムのサイゴン陥落。同年10月にニューヨーク最高裁でジョンの国外退去命令を破棄する判決。1976年7月にアメリカでの永住許可証(グリーンカード)を取得する。
・「ビューティフルボーイ」の曲と共にショーンとの生活を記録した家庭ビデオを流す。ショーンが5歳になるまでの間は、家族との生活を大事にした主夫時代と呼ばれる。
・「オー・マイ・ラブ」の曲に乗せて、追悼会の様子を流す。
・「ジョンを殺そうとしても、彼らは殺せなかった。ジョンのメッセージは生きている。」とヨーコのコメントが結ぶ。メッセージは「ギブ・ピース・ア・チャンス」である。
・ニューヨークの自由の女神を背景に撮った写真でジ・エンド。
「インスタント・カーマ」の曲をバックに、スタッフ・キャスト等を表示。
ジョンの演奏シーン
- レボリューション
- ギブ・ピース・ア・チャンス
- イマジン
- ジョン・シンクレア
「すべてを破壊しようとする革命には組しない」というメッセージ。この時期はヨーコと付き合っていたが、まだビートルズのメンバーとしての結束が固く、考え方も穏健だった。
「我々が言いたいことは、ただ『平和を我等に』だけだ」というメッセージ。このフレーズが繰り返され、反戦運動のテーマソングとなる。音楽的には単調だが、シンプルな歌詞の訴える力は強烈だ。
「理不尽な罪で囚われの身になっているシンクレアを救済しよう」と聴衆に呼びかけている。後に、ジョンも同じような言いがかりで、当局から国外退去命令を受けることになる。
雑感
これは2006年のアメリカ映画です。製作の背景には、イラク戦争に深入りするブッシュ政権が、ベトナム戦争の悪夢に似通ってきたのではないかという危機感があったものと思います。平和運動をつぶそうとするニクソン政権に対して、果敢に闘ったジョンの行動をクローズアップさせて、第二、第三のジョンの登場を願ったのではないでしょうか。
2007年12月、日本で封切られた日にヨーコは映画館に顔を出し、挨拶しています。司会者とのやり取りの中で、「この映画で証言している著名人のうち、一人でも応援のハガキをもらっていれば、随分と勇気付けられたであろう。当時の二人は孤独だった。」と答えています。確かにジョンの行動に理解を示し、賞賛している知識人が多く登場していますが、当時の社会風潮がそうすることを許さなかったのでしょう。マスコミも規制されていたものと思います。
映画を見た私の感想は、余分なものをそぎ落として、主題である「ニクソン政権に対するジョンの闘い」を抉り出している点に感心しました。当時の政権がなぜ一人のアーチスト「ジョン」を恐れ、いかに排除しようとし、それに対していかに抵抗し、挫折しかけながらもいかに立ち直っていったかがよく伝わってきました。ストーリーの展開にジョンの映像と証言者のコメントとジョンの曲が的確にはまっています。特に選曲が秀逸で、曲と映像のコラボレーションが映画の芸術性を高めています。
映画についての対談の中で「ジョンだけが登場していない・・・。」というヨーコのコメントがあります。当時のジョンの映像は堪能できましたが、本人の証言はありません。今の時点でどんな証言をしてくれるかは想像するしかありません。過去を感傷的に振り返ることを嫌うジョンの性分から推察すると、「精一杯生きていた。スリリングだったよ。」と屈託のない笑みを浮かべているのではないでしょうか?
ところで、現在の金融破綻による世界的な経済不況の世の中において、ジョンならどんな行動をとるのでしょう?平和運動とは次元が違うから、手を拱いているのでしょうか?困っている人を救済するチャリティ活動に熱心だったジョンのことだから、解雇され貧困に喘いでいる失業者達に対して何らかのアクションを起こすに違いありません。「ワーキング・クラス・ヒーロー」を自認していたジョンだから、彼らのために新曲を作ってその印税を寄付したり、彼らを救済するためのチャリティ・コンサートでも主催するのではないでしょうか。
(2009.3.1 記載)