アイデアコンペのメイキング(2)

実行委員会の立上げ

ちらし2記事
チラシ(提案者用)

前回はアイデアコンペをやることにしたきっかけを中心に述べました。2010年の終わり頃にはアイデアコンペの骨格が固まり、2011年に入って実施のための具体的な動きが始まります。
今回は実行委員会を立ち上げるまでの活動について記述することにします。但し、私の目から見たメイキングであることをお断りしておきます。

第2章 実行委員会の立上げ

        
  • 助成事業の申請
  • ・実施するからには予算の裏付けが必要です。採算が取れるように最大限努力して、赤字が出た場合は身銭を切る覚悟をしましたが、みんながハッピーな気持ちで終えるためには、赤字は最小に収めなくてはなりません。
    ・市民に協賛いただき、投票に参加いただくのが基本方針ですが、市民の協賛金で収支の帳尻が合うとは誰も思っていません。金を払ってまで投票に参加する奇特な人はいないであろうというのが大方の予想でした。
    ・そこでスポンサーを探さなければなりません。しかし、民間の企業に足を運んでお願いすることは、今回は控えることにしました。色のつかない無色透明のスタンスで、市民による市民のためのコンペを目指したかったからです。
    ・公益法人の中で街づくりや平和活動に対して助成を行っている団体があることを知り、中国建設弘済会の「中国地方地域づくり等助成事業」と広島国際文化財団の「ヒロシマピースグラント2011」の助成に申請することにしました。
    ・助成の趣旨に沿うよう所定の応募書に必要事項を記載して、中国建設弘済会には2011年1月末に、広島国際文化財団には5月末に申請書を提出しました。1月の時点では、まだ実施主体も明確でなく書類を審査しても、なんとも頼りなく感じられたであろうと思います。5月の時点ではアイデアコンペの公募を公表し、チラシ等を配布して広報に努めている最中でしたが、平和活動との因果関係をアピールする力が弱かったものと思います。どちらも不採択となりました。
    ・実績が無ったということも弱みの一つです。昨年のチャレンジを反省して、再度今年も申請することにしていますが、結果は如何に?

  • 広島市への事前説明
  • ・今回のアイデアコンペのテーマからして、本来なら行政サイドが主催すべきではないかと思います。私も行政の立場にいたからよく分かります。しかし、行政では自由な発想で提案を求め、市民から協賛金をいただき、市民の投票により入賞者を決定するという無鉄砲なことはできません。
    ・主催はできなくても、市の行政に役立つことなら、後援ぐらいはしてもらえるかもしれないと思いました。市の看板があれば、対外的にPRしやすく、市民の参加もお願いしやすくなります。実施する前に市の意向を確認するため、2月8日、担当窓口(都市計画課)に行きました。都市計画課、公園整備課、旧市民球場跡地利用担当課の補佐にコンペの趣旨・概要等を説明しました。
    ・広島平和記念都市建設法の精神を広めていくというコンペの趣旨については十分に理解をいただきました。後援名義を使用する場合は、都市公園法というこのエリアの制約条件を付けなければ認められないという回答でした。実現ではなく、アイデアを求めて市民と一緒に考える場を設けるのがねらいなら、全く条件を付けず自由な提案を求める方がよいのではないかというアドバイスをもらいました。その場の印象としては、全面協力はできないが、側面的な協力ならいいですよといった感じでした。
    ・後日、後援名義の使用は認められないという正式な回答をメールで受取りました。旧市民球場跡地の問題がこじれているので、球場跡地を含む中央公園のコンペには関わりを持つべきではないという判断です。正しいジャッジだと思います。もう一つの理由は、実績のない無名のグループでは資金の目途がつかなくて、実施できないのではないかという疑問です。実施できない可能性が大きいのに、後援名義使用を許可するはずがありません。
    ・結果として後援名義の取得に失敗しましたが、実施前に広島市に仁義を切ったことは良かったと思います。広島市とは付かず離れずの関係を保ち、最終的にアイデアコンペの報告書を提出することができました。

  • 後援名義使用の申請
  • ・どこに後援してもらうかは迷うところですが、沢山の名前を連ねても意味がありません。コンペに参加してもらえそうな人は建築家、建築学生、都市デザイナー等が中心になるであろうと想定し、それぞれを代表する団体に後援名義の使用を依頼することにしました。
    ・まずは日本建築家協会(JIA)中国支部の後援名義を得るために、広島地域会の会合で何度かアイデアコンペの趣旨を説明し、出席者の賛同を得ました。JIAも財政的に厳しいことを知り、予算をつけて共催にすることは早々に断念しました。相棒は中国支部の副支部長なので、3月15日の支部役員会で了承を取り、事務的な手続きを終えました。
    ・日本建築学会中国支部の当時の支部長は広大のS教授で、以前、仕事の関係で面識がありました。同期の広大教授に仲介を頼み、3月1日に趣旨を説明し、快く事前了解をいただきました。後は支部の事務局に申請書を提出し、事務手続きを済ませました。
    ・日本都市計画学会中国四国支部の支部長も面識がありましたが、相棒も日頃から協力関係にあり、3月22日に説明し、快諾してくれました。支部役員に説明するため、アイデアコンペ実行委員会の規約・メンバー等の資料を求められましたが、支部長に根回しをしてもらい、申請書等の手続きを終えました。
    ・財政的な負担はかけないという前提なので、3団体とも速やかに後援名義の使用許可の回答をいただきました。

  • 協力者探し
  • ・大学同期の仲間内だけではどうしても馴れ合いになり、推進力に欠けます。外部の人を誘い入れて、適切なアドバイスをもらいながら前進していかなければなりません。
    ・今回のコンペのテーマにピッタリの人が広島国際大学の I 先生(元広大教授)です。広島の戦後の都市計画の歴史に造詣が深く、広島平和記念都市建設法関連のシンポジューム等にパネラーとしてよく登場されていました。我々の学生時代には広大の助手として都市計画を担当されており、名前と顔はよく知っていました。
    1月28日に我々の説明を聞いてもらいましたが、「結構ですね。どうぞおやりなさい。」といった感じで、先生としては半信半疑だったようです。とりあえず、実施する時には相談に乗って欲しいというお願いをして帰りました。
    ・大学の2年先輩で、広島市都市計画局長まで勤められたTさんもアドバイザーとして適任の方です。以前からメールのやり取りをしていたので、メールで内諾を得ました。
    ・出版会社を営んでいるTさんは相棒の友人です。なかなか意気のよい方で、発想も豊かです。市民感覚でコンペを成功させる方策等について意見をいただきました。また、チラシの作成にも全面的に協力をしてもらいました。
    ・C放送の幹部役員で退職され、現在フリーで活躍されているMさんも相棒の友人です。コンペをPRするため、マスコミ対応等についてアドバイスをもらうことにしました。C放送では企画部門も担当されていたので、コンペの企画についても貴重な意見をいただきました。
    ・その他にも何人かの方が候補にあがりましたが、少し間を置くことにします。

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    チラシ(投票者用)
  • 実行委員会の立上げ
  • ・2010年の夏、白島新駅の設計者選定公募型プロポーザルに参加したときに組んだ大学同期の3人が核となります。
    ・大学同期は卒業してもまとまりがよく、年2回、5月の連休の頃と年末の頃に飲み会(少し前までは翌日ゴルフコンペ)を催しています。一人が教授として大学に残っていることと名幹事が今日まで続いている要因だと思います。最近では奥さん同伴が増えています。
    ・2010年11月末に同期の飲み会があり、出席者にコンペの概要を説明し、協力の要請をしました。同期に声をかけるとしたら、大学教授が適任であろうと3人の意見が一致し、お願いすることにしました。3人から勧められれば、仕方ないということで、実行委員会メンバー4人が確定しました。
    ・数度4人が集まり、アイデアコンペの実施について協議しましたが、2人は「本当にやるの?」と、まだ不安げでした。頼まれたから、協力しているだけで、実施できるとは思っていない様子でした。
    ・必要に応じてメンバーを増やすこととし、とりあえず4人の役割を決め、実行委員会の規約を作り、2011年3月1日に実行委員会を立ち上げることにしました。相棒の事務所のデスクに事務局を開設し、私が専属で張り付くことになります。電話、ファックス、パソコン等を設置し、いよいよスタートです。

雑感

建築計画や地区計画等のアイデアコンペの実施は、私の役人時代に何度か経験したことがあります。予算の裏付けがあり、主催者の体制も整った上での実施なので、全く問題はありません。
しかし、今回は資金も無く、実績も無い4人による船出ですから、不安が一杯でした。果たして、コンペに応募してくれる人がどれだけいるだろうか?金を払って投票に参加する人が本当にいるのだろうか?未知の世界だから、不安だらけです。
敢えて冒険を冒してまでも、突き進んだのはなぜでしょうか?広島の町を良くしたいという強い気持ち、自由に動ける環境が整ったこと、旧市民球場跡地の動き等々、いろいろな要因があったと思います。
その要因の一つに3.11の東日本大震災がありました。この市民コンペをやり遂げることは、「自分達の町は自分達で考えていこう!」というメッセージになり、東北の人々に夢と希望を与えることができるという大義名分になりました。ひるみそうになった時には、この錦の御旗を振りかざすことにしました。
次回はマスコミ対応を中心に記述する予定です。   

*ちょっとコーヒーブレイク : 『追憶(あなたはもう)

  (2012.3.10 記載)
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