アイデアコンペのメイキング(1)

アイデアコンペのきっかけは?

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アイデアコンペのメイキングを書き始めるのに、どこからスタートさせるか迷うところですが、自分の生い立ちまで遡る必要はなさそうです。社会人として何をしてきたか、サラリーマンを卒業するところから始めたいと思います。
コンペを実施中にいろいろなことが起こりましたが、舞台裏をどこまで曝け出すかも迷うところです。今後の糧になるか否かを一つの判断基準として取捨選択をしたいと思います。
今回は、アイデアコンペの実施に至るまでのところを記述することにします。但し、私の目から見たメイキングであることをお断りしておきます。

第1章 アイデアコンペのきっかけは?

        
  • 宮仕え
  • ・「悲しきは宮仕え」と言いますが、私も転勤を繰り返し、通算19年間の単身生活を過ごしました。国の機関の施設を整備する役所(官庁営繕)に在職し、最後は建築コスト及びコスト管理の研究所に勤務しました。
    ・建築の企画から予算要求・設計・発注・工事監理・保全指導等の一連の業務に携わり、建築のイロハを学びました。特に公共建築と民間建築の相違に着目し、公共建築の良さを広めていくことにより、日本の建築を良くしていくことができるという思いを強くしました。
    ・公共建築とは国民の税金を投入して作られる建物という解釈ではなく、一般の人が自由に利用できる建物とします。百貨店などもその典型です。入りやすい雰囲気と居心地の良い空間を持ち、利用者に対するサービス精神が発揮できる建築であって欲しい。
    ・私は1級建築士の資格を持っていますが、今は建築家ではないので、自らが設計してより良い公共建築を生み出すことはできません。私のできることは、公共建築の良さ、大事さを世の中に訴えることにより、市民の建築に対する認識を高めていくことです。その結果として、よい建築が生まれてくる環境が整うものと思います。
    ・私は宮仕えを終え、フリーの立場になり、これまでの経験を活かす道として公共建築の質の向上にターゲットを絞りました。

  • 専業主夫時代
  • ・2006年8月、宮仕えを終え、広島に戻り、待望の単身生活を終えることができました。妻が勤務していたので、退職するまでは私が家の仕事を担当することにしました。
    ・単身生活が長かったので、自活することには慣れていましたが、一番の変化は夕食の用意をすることです。近くのスーパーに食材を買いに行き、料理本とにらめっこしながら時間をかけて料理をしました。単に要領が悪かったと言った方が正しいかもしれません。
    ・主夫の生活も時間的にはゆとりがあるので、まずホームページを開設し、広島の公共建築とビートルズの情報を発信することにしました。また作曲も再開し、自分の曲をホームページに掲載しました。料理と曲作りとホームページの更新が主夫時代の主な仕事となりました。
    ・広島の公共建築の紹介も平和公園及び中央公園界隈の施設になった頃、旧市民球場跡地利用計画の動きに関心が移っていきます。丁度、事業コンペが開催され、最優秀を決められず、優秀作品を二つ選んで、お茶を濁すという失態を見せていました。更には、優秀2作品をベースに市民からの要望等を組み込んだ折衷案を市の整備計画とする前代未聞の結末を迎えました。
    ・当然、市民からは反対運動が起こり、旧市民球場解体に対しては訴訟問題に発展しました。広島市の対応のまずさに憤りを感じ、このまま市の整備計画が実現したとしても、30年後には陳腐なものとなり、建替えられることになるであろうと推察しました。そこで、全く新たな別のアプローチを試みることにしました。

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  • フリーの活動開始
  • ・2010年3月末に妻が退職し、趣味と家庭の生活に専念することになれば、私の主夫業も卒業となります。自由な時間が一気に広がり、私が少し外に出ることにしました。再就職をする気はないので、広島の建築を良くするNPO的な活動を模索することにしました。
    ・相棒から、広島市が主催している白島新駅の設計者選定のプロポーザル公募に参加しないかと誘いを受け、渡りに船で即応しました。技術的なサポート役として、ゼネコンOBの大学同期に声をかけ、協力してもらうことにしました。提案書の中身は見劣りしないと自負していたのですが、プレゼンテーション力が弱く、合えなく一次審査で落ちてしまいます。
    ・プロポーザルに落選後、2010年の夏頃から、アイデアコンペの取組が始まります。最初は旧市民球場跡地利用のアイデアコンペを検討します。一方で、世界建築家連合(UIA)東京大会が2011年秋に開催され、その行事の一環として広島でシンポジューム「被爆100周年の都市広島を考える」や展示会等が計画されていることを知ります。
    ・東京大会のテーマ「DESIN2050」は2050年を念頭に置いて、これからのことを考えようという趣旨です。広島は2045年が原子爆弾被爆100周年で、2049年が「広島平和記念都市建設法」制定100周年に当たります。広島のシンポジュームでは、この法律に謳われている「恒久の平和を誠実に実現しようとする理想の象徴として、広島市を平和記念都市として建設する」という都市づくりの理念について、議論される予定でした。なぜか、東日本大震災の影響で立ち消えになってしまいました。
    ・このUIA大会の広島イベントに関連付けたアイデアコンペにしようということで、相棒の勧めにより私も日本建築家協会(JIA)の会員になることにしました。コンペの対象エリアも旧市民球場跡地から広島市中央公園に広げ、2050年の在るべき姿を求めるアイデアコンペに軌道を修正しました。早速JIAの入会手続きをし、2010年の大晦日に承認通知が届きました。
    ・2010年の秋頃からはJIA広島地域会の会合に顔を出すようになり、理解と協力を得て、少なくとも後援名義を得ること、できれば共催に持ち込むことを狙いにしました。今回のアイデアコンペも2010年の終わり頃に大枠が固まったような気がします。

雑感

本シリーズの第1回目は2010年の末で終わりました。この年は専業主夫を卒業したばかりで、まだ試行錯誤のヨチヨチ歩きの状況でした。4年弱の主夫生活は単調な毎日の繰り返しで、刺激の少ない日々を送っていたので、社会へ復帰するのは楽しみでもあり、ちょっぴり不安でもありました。
しかし、この期間は私にとって充電の時期でもありました。役職等の縛りから解放され、一市民としての自由な身で一体何ができるのかを真剣に考えることができました。社会的には無職なので、肩身の狭い思いをすることもしばしばありましたが、逆に肩書きのない一人の人間として生きていく覚悟ができました。
JIAの入会は、私にその資格があるのか疑問でしたが、周りの推薦者のお陰で会員となることができました。とりあえず、アイデアコンペを軌道に乗せるために入会しましたが、建築の設計を生業にしているわけでもなく、そのつもりもないので、このまま会員を継続すべきか否か悩ましいところです。
次回は2011年に入って、助成事業の申請や広島市への事前説明等、具体的なアクションを起こし、実行委員会の立上げに至るまでのストーリーにする予定です。   

*ちょっとコーヒーブレイク : 『故郷で生きる

  (2012.2.20 記載)
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