まちづくりひろしま(第14号)より

被爆建物『本川小学校』

昨年11月15日発行の「まちづくりひろしま(第14号)」に、広島の復興の軌跡(9)被爆建物「本川小学校」を私が執筆しましたので、ここに全文を紹介します。

被爆建物「本川小学校」

    本川小学校は爆心地に一番近い小学校である。太田川(本川)を挟んで平和公園の対岸にあり、東方向に原爆ドームを望むことができる。『はだしのゲン』に登場する学校としても知られ、原爆ドームの佇まいと朝夕の平和の鐘の音は生徒の平和への心を呼びさませてくれるという。
       
  1. 戦前の姿
  2.  
    戦前の姿
    戦前の姿
    arch-hiroshimaのHPより
    学校の少し南側に位置する天満橋から本川橋への通りは昔の山陽道(西国街道)で、このエリアは江戸時代から商業地域として栄えており、学校の創立も明治6年と早い。
    昭和3年には市内の小学校として最初の鉄筋コンクリート校舎が落成。レストハウスや旧広島市役所を手掛けた建築家増田清の設計による、地上3階地下1階、L字型の平面を持つ端正な建築で、対岸に建つ産業奨励館とともにハイカラな佇まいであった。
         
  3. 被爆時の状況
  4. 昭和20年被爆後の姿
    昭和20年被爆後の姿
    昭和20年8月6日の原爆は当校の東360m、高度約600mの上空でさく裂し、運動場で遊んでいた子供たちは一瞬にして命を奪われる。爆風は校舎の窓枠を吹き飛ばし、壁をくの字に曲げ、強烈な熱線により自然発火した炎が窓という窓から一斉に吹き上げ、校舎内の全てを焼き尽くして自然鎮火。逃げ遅れた子供たちの亡骸が教室内で多数発見される。
    学童疎開をしなかった1・2年生の400人余の児童と10人余の教職員が亡くなった。生存者は教員1名、児童1名のみ。
    翌7日、ここは臨時病院・救護所となり、校庭では多くの死者が焼かれていた。
        
  5. 戦後の歩み
  6.   
    昭和21年授業風景
    昭和21年授業風景 昭和25年頃
    昭和25年頃
    その後、校舎は最低限の補修を施され、翌21年2月には吹きさらしの教室で授業が再開された。教員4名、児童45名。
    昭和24年、平和記念都市建設法が制定され、翌年に文部省より平和都市記念学校の指定を受ける。
    昭和26年にはL字型被爆校舎の南部分を解体して、西校舎と講堂が整備される。講堂は第6回国民体育大会のレスリング会場となり、天皇皇后両陛下が行幸される。
    昭和29年に管理校舎、32年に南校舎が完成して現在の飛行機型の校舎配置が整う。
    昭和62年に被爆(東)校舎が解体され、63年4月に新東校舎と被爆校舎の一部を保存活用した平和資料館が完成する。
         
  7. 平和資料館
  8.   
    平成26年8月平和資料館
    平成26年平和資料館
    平和資料館は鉄筋コンクリート造地上1階地下1階。3階建てだった被爆校舎の一部の地階と外壁を残し、内部を改装して昭和63年5月に開館した。
    設計を担当した前岡智之氏は「被爆校舎の保存には新耐震基準に基づく耐震上の問題があった。2階床スラブも含めて上階を撤去し、積載荷重をゼロにすることによりクリアした。被爆建物は一度壊すと復元は不可能であり、惨禍を伝える貴重な生き証人として多くの子供達の心に届いて欲しい。」と語る。
    下駄箱が置かれていた地下室を中心に当時の焼け跡が残るなど原爆の被害状態をそのまま残し、被爆の証として保存されている。
    主な展示品は被爆状況の写真パネル、校内で見つかった溶けたガラス瓶、産業奨励館から元安川に崩れ落ちた御影石、かつて原爆資料館に置かれていた被爆直後の市街地パノラマ模型、慰霊碑の碑文「安らかに眠ってください・・・」の額、その他。
    平成10年9月には入館者数10万人を超える。ただ外部から直接出入りできず、見学には小学校側に事前申し込みが必要なため不自由さを感じる。袋町小学校並みに公開性を高めれば、もっと入館者は増えるであろう。

    *(主な参考文献)本川小学校のHP及び平和資料館のHP他       
*ちょっとコーヒーブレイク:『「平和記念都市ひろしま」

  (2015.1.1 記載)      
前のページ
inserted by FC2 system