被爆建物「本川小学校」
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本川小学校は爆心地に一番近い小学校である。太田川(本川)を挟んで平和公園の対岸にあり、東方向に原爆ドームを望むことができる。『はだしのゲン』に登場する学校としても知られ、原爆ドームの佇まいと朝夕の平和の鐘の音は生徒の平和への心を呼びさませてくれるという。
- 戦前の姿
- 被爆時の状況
- 戦後の歩み
- 平和資料館
戦前の姿
arch-hiroshimaのHPより
昭和3年には市内の小学校として最初の鉄筋コンクリート校舎が落成。レストハウスや旧広島市役所を手掛けた建築家増田清の設計による、地上3階地下1階、L字型の平面を持つ端正な建築で、対岸に建つ産業奨励館とともにハイカラな佇まいであった。
昭和20年被爆後の姿
学童疎開をしなかった1・2年生の400人余の児童と10人余の教職員が亡くなった。生存者は教員1名、児童1名のみ。
翌7日、ここは臨時病院・救護所となり、校庭では多くの死者が焼かれていた。
昭和21年授業風景
昭和25年頃
昭和24年、平和記念都市建設法が制定され、翌年に文部省より平和都市記念学校の指定を受ける。
昭和26年にはL字型被爆校舎の南部分を解体して、西校舎と講堂が整備される。講堂は第6回国民体育大会のレスリング会場となり、天皇皇后両陛下が行幸される。
昭和29年に管理校舎、32年に南校舎が完成して現在の飛行機型の校舎配置が整う。
昭和62年に被爆(東)校舎が解体され、63年4月に新東校舎と被爆校舎の一部を保存活用した平和資料館が完成する。
平成26年平和資料館
設計を担当した前岡智之氏は「被爆校舎の保存には新耐震基準に基づく耐震上の問題があった。2階床スラブも含めて上階を撤去し、積載荷重をゼロにすることによりクリアした。被爆建物は一度壊すと復元は不可能であり、惨禍を伝える貴重な生き証人として多くの子供達の心に届いて欲しい。」と語る。
下駄箱が置かれていた地下室を中心に当時の焼け跡が残るなど原爆の被害状態をそのまま残し、被爆の証として保存されている。
主な展示品は被爆状況の写真パネル、校内で見つかった溶けたガラス瓶、産業奨励館から元安川に崩れ落ちた御影石、かつて原爆資料館に置かれていた被爆直後の市街地パノラマ模型、慰霊碑の碑文「安らかに眠ってください・・・」の額、その他。
平成10年9月には入館者数10万人を超える。ただ外部から直接出入りできず、見学には小学校側に事前申し込みが必要なため不自由さを感じる。袋町小学校並みに公開性を高めれば、もっと入館者は増えるであろう。
*(主な参考文献)本川小学校のHP及び平和資料館のHP他
(2015.1.1 記載)