まちづくりひろしま(第9号)より

『広島駅前界隈の成り立ち』

1月15日発行の「まちづくりひろしま(第9号)」に、広島の復興の軌跡(4)「広島駅界隈の成り立ち」を私が執筆しましたので、ここに全文を紹介します。

広島駅前界隈の成り立ち

    今、広島駅周辺は再開発が進み、戦後のヤミ市の面影を残していた友愛市場も姿を消した。広島駅前の顔として近代的な佇まいに変貌することは望ましいことではあるが、一抹の寂しさが残る。
    戦後の広島駅前で繰り広げられた復興の原点ともいえるヤミ市なくして今の繁栄はない。ここに広島駅前界隈の変遷をたどることとする。
     
  1. 戦前の広島駅周辺
  2.   広島駅は猿猴川と西国街道が交差する猿猴橋近くに位置する。江戸時代には隣接する愛宕町に宿場があり、猿猴橋通りは人の往来で賑わっていた。
      日清戦争が明治27年に開戦し、その直前に広島駅が開業する。広島駅北側の二葉の里地区には明治23年に開設された東練兵場が広がり、宇品港につながる兵士出兵の最前線として重要な駅となる。
      日清戦争時、広島に大本営が置かれたため、ますます軍都の色彩が濃くなり、第2次世界大戦の終戦まで続く。
      南側は広島駅の玄関口として、いくつかの生活商店街が連なり、まとめて荒神市場と呼ばれていた。
         
  3. 被災後の状況、ヤミ市の発生
  4. 1945年、焼けただれた駅
    焼けただれた駅
    1946年正月頃のヤミ市
    ヤミ市 広島百貨店(1952年開店)
    広島百貨店 友愛市場(2013年1月)
    友愛市場
    1945年8月6日の原爆投下により、爆心地から東に約2k離れた荒神市場一帯も壊滅する。広島駅舎内部も全焼し、多くの死傷者を出したが、生き残った駅職員の懸命の努力により、翌7日には宇品線が復旧し、8日には山陽本線も部分開通した。
      人や物資が集まるところに市が立つ。被爆後しばらく経つと駅前広場に自然発生的に露店のヤミ市が立ち始め、日ごとに増えて1946年正月にはバラック建ての店が多数集まっていた。政府による配給制度もマヒし、都市に住む人々の食料や生活物資も底を突く。ヤミ市では法外な価格で品物が取引されたが、生きるためにはそこで手に入れるしかなく、飛ぶように売れた。
      ヤミ市は終戦直後に全国的に出現した商業形態で、都市生活の復旧をスタートするうえで一時的な役割を果たした。ある程度復旧が進むと土地の不法占拠に当たるため、ヤミ市の閉鎖と撤去が指導されるとともに戦後の物価統制令撤廃により次第に姿を消していく。
      広島駅前のヤミ市も駅前広場から近くの民有地に集団移転したり、4つの民衆マーケットができたりしたが、1949年の大火災によりその大半を焼失し、新たな展開を迎える。
           
  5. 広島駅前再開発の走り
  6.    広島駅前地区は戦災復興土地区画整理事業の対象になっていたため大火の跡地には本建築も仮建築も許可されなかった。当面は、市の費用で移動式露店を作り、被災者の希望者に貸与していた。
      土地区画整理が進み、駅前広場も拡張され、共同店舗の広島百貨店が1952年に開業し、ヤミ市が終焉した。その面影は友愛市場や大須賀地区の街並みに残る。
      1960年代にはスーパーマーケットのイズミやダイエーが駅前に進出し、広島駅も駅ビルとして新装開店する。
      一方、1949年頃から市中央にある八丁堀、本通りの復興が進み、ヤミ市から次第に買い物客が奪われていく。更に天満屋、三越、そごうの進出により駅前地区の地盤沈下が進む。
      1970年代に入っても駅前地区は広島市の陸の玄関にも関わらず、木造の老朽家屋が密集し、土地利用状況も細分化され、機能的にも景観的にも見劣りしていた。
      駅前再開発をめぐる動きはあったが、やっと1981年3月に広島市が「広島駅表口周辺地区市街地再開発事業基本計画」を策定し、新たな広域拠点として再開発することが打ち出された。   
      
  7. 広島駅前再開発の現状
  8.   広島駅前 最初に動き始めたのが南口Aブロックで、1988年に第3セクターの広島駅南口開発(株)を設立し、翌年に福屋の核テナントが決定。1996年から工事着手、1999年4月に再開発ビル(エールエールA館)がオープンした。
      南口Bブロックはバブル経済崩壊等の影響を受け、ホテルや百貨店の出店計画が白紙になるなど暗礁に乗り上げたが、2006年に住友不動産(株)を事業再構築のパートナーに決定。2012年11月から解体工事に着手し、2016年の再開発ビル竣工を目指して工事中である。
      南口Cブロックも2008年に事業コーディネーターとして森ビル都市企画(株)を中心とする企業グループを決定。昨年11月から建物の解体作業を開始し、2016年の竣工を目指す。
      B・Cブロックとも主用途は住宅、商業施設、駐車場等。超高層の住宅棟は立地が良いので入居率は期待できそうだ。新住民がこの地区の歴史を理解し、愛着が持てる環境を備える必要があり、戦後の駅前の変遷を示す模型を展示できる場が確保されることを提案したい。
     *「広島市公文書館紀要第18号」(広島駅前ヤミ市の変遷とその特徴:石丸紀興著)を主に参考にした。       

雑感

戦後のヤミ市は戦災を受けた日本の各地に発生しましたが、広島の場合は中心部の人も建物も全滅した焼け野原の中から誕生しました。その誕生の歩みは原始的ではなかったかと想像します。
ヤミ市が撤去されて民衆マーケットや共同店舗に変わり、友愛市場はその頃の面影を色濃く残していました。市民の台所として日用品や食料品などを売買し、特に年末の買い物客でごった返した風景は風物詩となっていました。
  再開発が完了する3年後には広島駅前の景観は一変しています。しかし、この地に育った遺伝子(DNA)は変えようがありません。そのDNAを上手に生かした新しい街に生まれ変わることを願います。

*ちょっとコーヒーブレイク:『「広島を愛する人」

  (2014.2.20 記載)   
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