まちづくりひろしま(第6号)より

『広島平和記念公園の成り立ち』

7月15日発行の「まちづくりひろしま(第6号)」から、広島のまちの復興の軌跡をシリーズで掲載することになりました。
第1回目の平和記念公園は私が執筆を担当しましたので、ここに全文を紹介します。

広島平和記念公園の成り立ち

    被爆都市ヒロシマの戦後の復興の軌跡を記録に留めておくことは価値が高く、現在、県と市が共同で作業を進めている。ここでは広島のまちを特徴づけている平和記念公園、平和大通り、河岸緑地等について、過去の文献等を参考にしながら分かりやすく紹介したい。
     第1回は広島のまちのシンボルともいえる平和記念公園を取り上げる。  

     
  1. 被爆前の町並み
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    中島地区戦前
    元安橋の東詰に旧「広島市道路元標」が設置。江戸の日本橋同様に広島の道路の起点となる場所であった。旧西国街道と交差し、太田川や瀬戸内海を利用した水運交通の拠点として、物資の荷揚げで賑わい、街の活況を呈していた。
    鉄道・電車・バス等が発達して、町の中心が紙屋町・八丁堀にシフトしたが、川に挟まれた中島地区界隈は映画館や喫茶店などがあり、古くからの盛り場であった。戦前の繁華街を象徴する「すずらん通り」は中島本通り(旧西国街道)にも設置され、夜の街並みを彩った。
    戦争末期になると空襲を逃れるために住民の疎開が相次ぎ、中島地区の南側(現在の平和大通り)は延焼防止のため、国民義勇隊や学徒動員等により多くの建物が取り壊されていた。
      
  3. 被爆後の惨状
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    中島地区被災後
    1945年8月6日午前8時15分、広島市の上空約580mで世界初の原子爆弾がさく裂した。爆心地に近い中島地区は鉄筋コンクリート造の燃料会館(現レストハウス)を除いてほぼ全壊し、街も住民も一瞬のうちに消滅した。当日、建物疎開に動員された学徒や近郊からの国民義勇隊員もほぼ全滅であった。
    多くの人が水を求めて川に飛び込み、そのまま帰らぬ人となった。何とか家族のいる我が家に帰りたい一心で焼き崩れた瓦礫の中を彷徨いながら息途絶えた人も数知れず。しばらくは、戻らぬ家族の安否を求めて、焼けただれた死体の転がる街中を探し回る光景が続く。
    どんな惨状であろうとも、そこから逃げ出すことはできず、幸運にも被爆当日離れていた元住民たちが戻ってくる。周りに転がっている焼け残った瓦礫や廃材を使ってバラックを建て、そこで生き抜くことを始める。中島地区にも400戸程度のバラックが建てられた。
      
  5. 広島平和記念都市建設法の成立
  6.   1945年11月には国が戦災復興院を作り、翌年の10月に広島市を含む全国115の都市を戦災復興都市と指定し、各都市で復興の都市づくりが始まる。
      広島では、1946年2月に広島市復興審議会がスタートし、10月、11月には道路、公園、土地区画整理事業等の広島復興都市計画が決定。中島地区が戦災記念公園となることもこの頃にほぼ固まる。
      しかし、廃墟と化した広島のまちを復興させるためには、人も物も金も足りない。支援を国に要望しても、戦災都市を国中に抱えた国は広島市だけを特別扱いするわけにいかない。苦肉の策としてひねり出されたのが、憲法第95条による特別法である。一つの地方公共団体のみに適用される法律を制定して、国等から復興事業の促進のための援助を勝ち取ることができるようにすることだった。
      特別法の制定には市長を筆頭に、市議会や地元選出の国会議員等の血と汗のにじむ尽力により、国会議員を動かし、GHQの賛同も得て、国会に提出される。
      広島平和記念都市建設法は1949年5月に衆参両院において満場一致で可決された。特別法を制定するためには住民投票で過半数の同意が必要で、7月7日に住民投票が行われ、8月6日に公布・施行された。この法律により、広島を世界平和のシンボルとして位置付け、広島の都市づくりを国家的事業とすることが約束された。
      
  7. 設計コンペ実施
  8. 丹下当選案
    広島復興都市計画の中で、被爆死した人々の霊を慰めるとともに、史上初めての被爆都市として平和を希求する場にしようという中島公園の計画も、財源不足と困窮のなか、生活により密着した住宅建設を望む強い声に押され、挫折するかに見えた。
    しかし、広島平和記念都市建設法の制定の動きにより、勢いを取り戻し、中島公園の計画名称も「平和記念公園」と変わる。
    平和記念公園と記念施設の全体をデザインする設計コンペを実施することになり、1949年4月20日に公募を開始する。7月18日に締め切られ、多数の応募の中から当時東大助教授の丹下健三氏のグループが1等に入選し、広島平和記念都市建設法が公布された8月6日に公表された。
    丹下案については、後述の「丹下健三生誕100周年プロジェクト」の記事で紹介されているので、省略するが、広島のまちの構造から発想して提案した案は他の追随を許さず、誰もが認めざるを得ない最優秀作品であった。
      
  9. 平和記念公園の建設
  10.   丹下グループの当選案も順調に進められたわけではない。予算不足等のため、大アーチは取りやめ、西側の集会場は公会堂として地元財界の寄付により、地元の事務所の設計となる。
      1949年の広島平和記念都市建設法の制定を受け、1950年度から予算化される。原爆資料館は1951年2月に着工したが、最終的な完成は1955年8月である。平和記念館も1952年3月に着工したが、完成は1955年5月である。
      一方、公会堂は大集会所にホテルの機能が加えられ、1953年11月に着工し、3館では最も早く1955年3月に完成している。
      1952年に慰霊碑が完成し、この年から平和記念式典をこの地で開催する。しかし、慰霊碑の北側には多くの民家が残り、幔幕を張って仕切りをしていた。民家が完全に取り除かれ、跡地を植栽し、平和記念公園としての形を整えたのは1959年の式典からである。
      なお、この公園の建設は、失業に苦しむ被爆者や復員兵や引揚者の多くの方々の労苦の結晶であることを銘記したい。
      その後の幾多の変遷を経て、今日の平和記念公園の姿となるが、次回以降に譲りたい。

      *「広島被爆40年史・都市の復興」等の文献を参考とする。   

雑感

平和記念公園ができる前には市民の生活が息づいた街並みがあり、一発の原爆により焦土と化したがれきの上に作られた公園です。
この公園に佇めば、亡くなられた多くの人たちの霊を感じてほしい。ある外国人観光客が平和記念公園に原爆が落ちなくてよかったという感想を漏らした話を聞いたことがあります。広島市民にも多くの犠牲の上に広島のまちが築かれていることを知らない人、忘れている人がいると思います。
私も最近までそれほど意識はしていなかったのですが、今は少なくとも平和記念公園の中にいる間は亡くなられた人たちの霊を感じ、平和のありがたさを味わうように努めようと思っています。

*ちょっとコーヒーブレイク : 『「平和記念都市ひろしま」

  (2013.10.5 記載)   
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