- 経済規模 2007年度の名目GDP(国内総生産)は516兆円です。そのうち建設投資額は52兆円ですから10.1%を占めています。
- 経済効果 高度経済成長を遂げているときには、建設投資額もその成長率を上回る勢いで伸びていました。ということは建設業も経済を牽引していたことになります。
- 建設投資の推移 国土交通省の統計資料に1960年(昭和35年)からのデータ「建設投資の推移」があります。
- 建設業者数と就業者数 建設業就業者数は2006年度で559万人、全産業に占める比率は8.8%です。1987年までは530万人前後で推移していたのが、バブル以降増え始め、はじけてからも増え続け、1997年に685万人のピークとなります。その年を境に年々減少して今に至ります。
建設投資額のピークが1992年の84兆円で、対GDP比が17.4%です。1990年バブル崩壊後も2〜3年は慣性の法則で建設需要が高止まりしていました。
第一次オイルショックを受けた1978年度は対GDP比の最高値24.6%にも達していました。田中角栄内閣の列島改造ブームに沸いていた頃です。
欧米でも対GDP比は10%を下回っているので、現在の日本の建設投資額は妥当な数値と言えるかもしれません。
何度か不況の時期を迎えますが、その都度公共事業の投資を増やすことで景気を刺激していました。公共事業、特に土木工事は失業者の受け皿としての役割を果たしていました。特別な技術がなくても、元気なら誰でも務まる単純労働が主体だったからです。
ところがバブル崩壊以降、この種の景気対策はあまり効果を発揮しなくなりました。なぜでしょう?公共事業予算を増やしても、末端の庶民に届くまでの間に大半が消えてしまうからです。流通の仕組みが複雑になりすぎて、途中段階で流失してしまいます。もう少しシンプルにすることが構造改革の狙いの一つです。
1960年は池田内閣が国民所得倍増計画を発表して、戦後の試練を乗り越え、国としての自信と勢いが増した時期です。10%を超える高度経済成長を続け、今の中国の勢いを髣髴させます。
1972年は田中内閣が誕生し、日本中が列島改造ブームに乗って過剰気味になりますが、翌年の第一次オイルショックで一気に景気の熱が冷めてしまいます。更に1977年の第二次オイルショック以降、建設投資が抑えられ俗にいう「建設冬の時代」が続きます。
1985年はプラザ合意が結ばれ、円高と大幅な金融緩和により民間の建設投資が拡大し、いわゆる「バブルの時代」を迎えます。
そのバブルも1990年に崩壊しますが、同年に日米構造協議により1991年から2000年までの10年間に総額430兆円の公共投資が約束されました。それを受けて大型の公共事業が次々と予算化され、要求すれば何でも通るという公共事業バブルが発生します。しかし、一向に景気が上向きません。
やむなく2001年に小泉内閣が登場し、聖域無き構造改革に取り組むことになります。公共事業予算も毎年カットされ現在に至っています。
バブル崩壊後も増加したのは、公共事業の投資効果と思われます。景気の上昇にはつながらなかったものの、失業者対策には寄与しました。
一方、建設業者数は2007年度で52.4万社です。建設冬の時代からバブル崩壊する1990年まで51万社前後の横ばいでしたが、1991年から増え始め、2000年にピークの60.1万社になります。2001年以降は公共事業の削減が徹底され、やっと業者数も減少傾向になります。
建設投資額が減少しても、業者数は増えていくのが、建設業の特異性です。倒産して1社が消えても、分裂して2社が誕生するということが多々あります。小規模の建設会社を興すことは割合簡単なのかもしれません。
しかし、建設投資のパイが小さくなれば、それに見合った業者数になるのが道理です。今しばらくは減少傾向が続くものと思います。